ある判断



ストーマーを装着しはじめてからすでに4ヶ月が過ぎようとしている。装着の仕方や常にそれを体につけていることに対する不安は無い。体調的にはこの判断が正解だと今でも思っている。確かに2日置きくらいにストーマーの交換と言うわずらわしさはあるものの、ガンに対する自分なりの防衛手段だと思っている。結腸に近いところにガンがあり、もしストーマーの手術をしていなかったらその患部を老廃物が腸の中を常に通ることになる。これは決して体のためになるとは思われない。老廃物を遮断するだけでもこれ以上悪化することは防ぐことが少しでもできるのではないか。これは医者の判断ではなくて、ぼく自身の判断である。医者から見れば独断と偏見と診られるかもしれない。しかしガンと戦っているのはぼく自身であり、自分で納得がいくことであれば、それを実行し試してみる価値は十分にあると思っている。毎日の散歩もそのひとつと言える。腸の働きを活発化させるためには動かなくてはだめだ。動くことが苦痛になることもしばしばある。ストーマーをつけたとは言え、結腸部分を取り除いたわけではなくその手前で人工肛門を通して老廃物を外に出しているだけだ。こんな状態でも人工肛門から本当の肛門までの腸は生きていて、いまだに腸液を出し続けている。これが患部を刺激するのか、いまだに残便感がある。大便が出るわけではないが、腸液は肛門から毎日排出される。腰の痛みはほとんど無くなったが何となく腰周りから背中にかけてなんとなく重たい感じがまだ残っている。こんな感じや抗がん剤による疲れ易ささえ無くなればうれしいのだがとは常々思っている。しかし一朝一夕に完治するものではない。そうは分かっていながら時々あせりを感じるときもある。そんなときは森林の中を歩いたりして、その気持ちを自然に対してぶつけることにしている。花の写真を撮ったり、昆虫の写真を撮ったりしているとき、自分がガンであることを忘れている。気持ちよく忘れるということは逃げのようにも見えるかもしれないが、そうではないと思っている。昔、シュタイナー関連の本を読んだときがあった。シュタイナー思想に傾倒しているわけではないが、所々にそうなんだと納得できるところもあった。その中のひとつに子供の勉強についての項目があった。「勉強したことはどんどん忘れなさい。詰め込み過ぎて脳が満杯の状態では決して体や精神にとっていいこととは言えない。」忘れて新しいことを受け入れる余地を残しておくことが大切だと。これは勉強に限らない。すべてのことに通じているのではないかと思っている。ぼくがホームページでいろいろなことを書き連ねていることもひとつだ。書くことによって脳の中をからっぽにする。書いた内容を気持ちよく忘れる。ただこのホームページのどこかにしまってあることだけは覚えている。そうすることによって新しいことを受け入れる余地を作る。
自然と接したり読書したりすること、それは生命の力強さと同時にもろさを感じ受け入れるひとつのステップなのかもしれない。こんなことを意識しながら毎日を楽しんでいる。
記:2008/8/5