星への想い
●星に興味を抱く。人それぞれ違うだろう。ある人は星空にロマンを感じてその中に浸りたいと思う。またある人は宇宙を科学的に解明したいと思う。またある人は哲学的なものを思い描く。接し方はいろいろあっていい。その人にとって最もよいと思う方法で接すればいいと思う。ぼくの場合はその時の気分によってどれかに偏っている。これは自分の中の葛藤の現れだと思う。ロマン的なものに浸っているときに、これでいいのかという疑問が浮かび上がると、哲学的なことや科学的なことを考え出したり、そういう関係の本を読みたくなってくる。科学的に見つめているときは、もっと人間的なものが必要ではないのかと考えたりする。 昔、すべてが一緒だったときの記憶がわれわれの中に残っているのかもしれない。分割していくのではなくて総合していくことの必要性を無意識が知らせているのかもしれない。 そんな想いがあるために、ぼくの天体観測は曖昧な状態のまま持続している。星空が見渡せる野原に寝転がって眺めているときのあの気分が最も安心できるものだ。何か宇宙に抱かれているような感じを持つ。ちょうど母親の胎内にいるときの安心感みたいなものに似ている。これを得たいがために遠くまで星見に行く。できればひとりがいい。考える時間が無限にあるように思えるからだ。人声のしない、ただ風の音がするような空間にいるとき半分恐ろしさを感じている自分を発見するが、同時に喜びも感じている。何とも言いがたい感覚である。 昔、山小屋にひとりで泊まったときのことである。人の気配はまったくなく、聞こえる音と言えば風の音だけ。そのうちに風も止み、音の無い世界に入り込んだ。そのとき、耳の中ですごい音が渦巻き始めた。まったくの無音には人間は耐えられないのか、それとも普段感じることの無い鋭敏な感覚が蘇ったのか分からないが、ひどい耳鳴り状態が続いた。星を見つめながらのときも相変わらずシーンという耳鳴りが続いていたが、しばらくするとおさまった。今思い出しても不思議な体験だった。 無音状態のとき、耳は研ぎ澄まされ、自分の内部の心臓の鼓動や、血管の中を血液が流れる音、筋肉の動く音等が聞こえてくるという話を医者から聞いたことがある。耳から脳に至る神経のどこかが刺激されて、こんな音が聞こえるのかもしれない。 地球が太陽系の中で生まれたのが46億年前、そしてその地球上に生命が誕生したのは40億年前と言われている。宇宙の塵が集まって惑星を作ったということは、生命の素は宇宙にあるとも言える。宇宙が人を呼ぶのはこの痕跡がいまだ人の中に記憶されているという証なのだろうか。耳鳴りは今となっては理解できない過去の記憶の再生音なのかもしれない。 四方上下、3次元の空間を意味しているのが「宇」だという。昔から今までのあるいはこれからの時間的な流れを「宙」という。たった「宇宙」という二文字の中にすべてを凝縮しているところがすごい。宇宙には、星あり、星雲あり、惑星あり、ほうき星あり、チリあり、あらゆるものがこの中に含まれている。そしてこれらのものは永遠不滅のものではなくて時間の流れに従って日々変化している。これは中国の漢の時代に著わされた「淮南子」(えなんじ)に出てくる言葉だ。宇宙ということばに深い意味をすでに込めていたのだ。 そして詩人は別の感覚で宇宙を眺めている。 二十億光年の孤独 谷川俊太郎 人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き ときどき火星に仲間を欲しがったりする 火星人は小さな球の上で 何をしているか 僕は知らない (或いはネリリし キルルし ハララしているか) しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする それはまったくしかたのないことだ 万有引力とは ひきあう孤独の力である 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う 宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんなは不安である |
記:2006/7/24 |