観測はアナログ or デジタル?
●世の中はどんどん便利になっていく。一昔前までは駅の切符は窓口で行き先を言って買っていた。スイカはたらい(盥)に水を入れて冷やしていた。テレビはロータリー式のチャンネルを回して合わせていた。それが今の時代すべて自動化で簡単になっている。切符を買う時に駅員との会話で近くの名所を聞いたりできた。駅員とのコミュニケーションがそこにはあった。スイカは冷え過ぎずちょうどいい食べごろの冷たさに冷える。手をたらいに突っ込んだときの何とも言えないさわさかさを思い出す。テレビの映りが悪い時は、チャンネルの接点不良が多かった。チャンネルの接点部分を布で綺麗にしてやるとちゃんと映ってくれた。考えるとすべてアナログの世界であったように思う。それが今はデジタルで制御されているものが多い。中間というものが益々無くなっているように思う。LPレコードや真空管アンプに根深い人気がいまだにあるのはこの辺にあるような気もする。そんなのもう時代遅れだよと言われればその通りであるが、ちょっと待てよと立ち止まってしまう。 望遠鏡の世界には、昔ながらのモータードライブがある。星を追いかけるための道具だ。星の速度に合わせて望遠鏡を動かしてくれる便利なグッズで手放すことはできない。最近のコンピューターが内臓された天体自動導入システムとなると、どうなのだろう。天体を選んでポンとキーを押すだけで望遠鏡には目的の星が自動的に導入されている。確かに便利。しかしである。野外で電池駆動させるこれらの機器は昔のシステムに比べると電力を食う。それだけエネルギーが必要ということだ。観測に行く時に重い電池が増えることになる。それにこの電池が使い捨てであれば、費用もばかにならない。昔のシステムであれば一週間くらい持ったものが一晩も持たないということにもなる。システムは簡単な方が故障も少なく、壊れた時も修理が簡単である。システムが大きくなれば、中のボードをすっかり取替えということもある。これらのニュータイプが悪いと言っているのではない。必要に応じてなのである。のんびりじっくりタイプの観測家には昔のシステム、天体を簡単に導入できて早くいろいろな天体を観測したい人はニュータイプを選べばいい。 僕は望遠鏡にしろ何にしろ、ある目的に達するまでの過程を大事にしたいと常々思っている。僕が自動導入装置をあまり好きになれないのは星を入れるときの過程が飛び飛びでデジタル的ということにあるような気がする。何か途中の工程を飛び越して、いきなり目的地に到達している、それでいいのだろうかという疑問が残るからだ。星をひとつひとつ確かめながら目的の星にたどり着いた時の感動といったらない。あるいはこういう考え方ができるかもしれない。ニューシステムはプレステのようなゲーム機であって、バーチャル空間を楽しんでいるのではないか。子供達がゲームを楽しんでいるときには現実と仮想世界の区別がつかない状態にあるのだと思う。インベーダーゲームくらいしかしたことがない僕としてはなかなか付いていけないということかもしれないが、僕が求めたいのはバーチャルではなくリアル空間だということだ。 僕はパソコンを結構使っているがあくまでも道具としてであって相変わらずアナログ的感覚人間だと思っている。すだれ越しのそよ風に夏のすずしさをふと感じたり、流れ星に願いをかけたり、星の神話に昔の人々の想像力の豊かさに驚いたりしている。 木星を望遠鏡で見る。像はあまり落ち着くことがない。大気のゆらぎで小刻みに揺れているからだ。それでも時々ゆらぎが止まってはっきりと模様が見えるときがある。見えたときの感動は大きい。そうか、望遠鏡を覗いているときはみんなアナログ人間になっているのか。大気の底でそのゆらぎを感じながら星を見ているぼくら。 写真を撮るという行為を考えてみる。天体写真はある一瞬を捉えていてデジタル的と思い勝ちであるが、大気のゆらぎが像をゆらしていてそれが写真にボケを与えている。完全に一瞬ということはありえない。ある時間の合成像がそこに写しこまれている。そうであれば一瞬ではあるがアナログと言えないだろうか。地上の風景や人物写真で、背景がボケた写真はよく見かける。あるいはわざとボケを作って味を出したりする。ボケの部分を見ると、奥行きのある対象の場合いきなりボケているのではなくて連続的にボケが拡大されている。これもアナログ的と言える。人間の視覚を考えてみると、目は一瞬のうちに見ている対象にピントを合わせることができるので、ボケということを日常生活ではあまり意識することはない。視線方向の見たいものだけしか意識が働いていないのでボケが感じられないと言ってもいいと思う。それがカメラという機器を通すといきなりボケが現れてくる。できあがった写真の全体を見渡せるからだ。カメラがアナログ世界を切り取りつなぎ止め視覚化する。デジカメも撮像素子はデジタル電子部品からできているがCCDにしろCMOSにしろ光を蓄積して像を形成しているのは銀塩カメラと変わらない。デジカメの場合、たいてい撮像素子がフィルムよりも面積が小さいために付属のレンズの焦点距離は短く設定されている。焦点距離が短いと広角レンズがついているのと同じになりボケが出難いということはある。一眼デジカメでは撮像素子面積も広くなり銀塩カメラと条件は同じと考えていいだろう。ボケも同等に出る。 「あなたはデジカメ派それとも銀塩派」というタイトルをよく眼にする。これは媒体がCCD(あるいはCMOS)なのかフィルムなのかの違いを言っているだけで、写真を写すという行為は同等と考えていいと思う。プロカメラマンと言われる人たちでもこれを誤解している人がいるように思う。フィルムの方が味があって微妙な表現ができると言ってデジカメに手を出さない人もいる。ボケ味というものを気にしている向きもある。またデジカメは後加工が簡単にできるので本当の写真ではないと言う。しかし銀塩で写した人も現像段階であれこれ処理(覆い焼き、焼き込み、重ね焼き、印画紙の号数選択、フィルムの前処理・後処理)をして作品に仕上げている。どちらも使う機器は違っても同等のことをしていると言える。芸術作品というのは撮影機器の種類を問わないはずだ。出来上がった作品が見るものにとって感銘を与えるものなのかどうかにかかっている。科学資料写真でも同じことが言えると思う。何が真実かは最終的には今までの経験及び理論によって判断するより仕方がない。どれが正しくどれが間違っているかは簡単には言えない。 望遠鏡で月を見る。センターにピントを合わせると、周辺はボケて見える。写真とまったく同じだ。人間の目のようにオートフォーカスであれば、見る対象は即座にピントが合う。望遠鏡はそういう意味ではまだ未完成と言えるだろう。倍率・ピントが人間の意志に従って思うように変えることができるようになったとき究極の望遠鏡と言えるかもしれない。未来型完全アナログ望遠鏡の登場である。 |
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記:2006/7/19 |