狂言」を見る



  能、狂言の世界は昔、一度だけ学校の鑑賞会で見たことはあったが、何が何だか
解らず興味もわかなかった。まったく無縁の世界と思っていたものが、ちょっとした
めぐり合わせで、身近なものと感じられるようになってきた。
 それは、東京電機大学鳩山キャンパスで、「秋の風流-狂言の夕べ-」が催
されたからだ。
十三夜の月が東の空にかかる頃、舞台は始まった。はじめに大藏彌太郎さんによる、
能・狂言の解説があったが、ユーモアを交えたトークは解り易く、知らず知らずのうちに、
その世界に引き込まれてしまった。

 能舞台は、三間四方(6m四方)の空間の中で演じられる。背景の松が描かれた
鏡板と、4つの柱、そして格子状の天井の空間である。その他の舞台装置は何もな
い。大藏さんの話に依れば、舞台は人間の体を表しているという。4本の柱は手足を
、格子状の天井は骨格を、そして、演技者が出てくる所にかかる暖簾状のものは、
心臓の弁を表しているという。その中で演舞者は、動きを止めることなく静かな動きを
している。これすなわち「血」であるというのだ。こう伺うと、簡素と思ってきた能舞台
空間の何とすばらしいことかを認識できる。舞台の下にはカメが置かれている。これは
演舞者が足を踏みおろしたときの反響効果を出すためだ。

 能の世界は「有を無に変える世界」だという。現実にある世界をふんわりとしたベール
で覆い夢心地の世界に誘う。だから、能を見ていると眠くなるのはもっともだと言う。
小鼓は心臓の鼓動を表し、時々大太鼓で驚かすのは、その夢心地を現実に戻す作用
をする。しばらくすると又夢の世界に入り込む。これが能の世界だという。

 一方、狂言の世界は「無を有に変える世界」だという。ありえない世界をさもありそうな
世界として描く。おどけたしぐさとことばのやりとりの面白さが、この世界には満ちている。

 当日、演じられたのは二つ。「棒しばり」「寝音曲」。二つともお酒がこの場の雰囲気
を作っている話だ。小学生の子供も一緒に見ていたが、その世界に引き込まれていた
のがわかる。それほど楽しい出し物だった。
 現在、狂言には、大藏流和泉流鷺流(この派は明治末年に絶えたという。または
山口県の方に残っているともいう)の流派があるという。その中で上品な可笑しみ(ヲカシ)
の伝統を引いているのが最も古い「大藏流」だという。
 
狂言では、たいがい面を付けないが、左の「不悪
(ぶあく)だけは、こういった面を付けて登場する。
正面から見るといかにも怖そう。伏目がちにすると
泣き顔になり、見上げると笑い顔になり、横から見
ると左右で違っていて、片方は笑い顔、他方は怒
り顔になるという。演者は、この表情の違いを使い
分ける必要がある。
この表情を出せない演者は、まだまだ修行が足り
ないらしい。素顔で表情を作るのも難しいが、面の
表情を変化させるのもそれ以上に難しいと思う。