町田さんと出会ったころ
1987年(昭和62年)、ハレー彗星が過ぎ去って一年が経過しようとしていた。ハレー景気の後遺症で望遠鏡の売り上げが下落していた。そんな市場の情勢と、「このままの自分でいいのだろうか」という衝動がどんどん膨らんでいったとき、退社することを決意したのだった。僕は結婚していて3人のこどもがいて、さらに4人目がすでに小さな命が芽生えているときだった。そんな状況の中で家内は何も反対せずに受け入れてくれた。内心、本当に大丈夫なんだろうかと不安でいっぱいだったに違いない。僕のわがままを受け入れてくれた家内に感謝せずにはいられない。
ある会社に面接に行くことになった。そして、その会社の相談役をしていた町田晴彦さんと初めて出会うことになる。顔色のいい、つねに笑顔を絶やさない、そして頭の回転はものすごく速い初老の方という印象だった。その日は面接だけのつもりで行ったのだが、結局終業まで会社にいてあちこち見せてもらった。
「一杯飲みに行こうか?」
という誘いに乗って近くの飲み屋にお供することに。こんなこと世間では無いと思う。まったく異例のことだった。酒を飲みながら他愛無い話から、まじめな研究開発の話まで留まることがなかった。
この日から、町田さんとの付き合いが始まることになる。結局その会社には1年勤めた後退社して週1回の勤務に参加するようになるのだが、それからが町田さんとの付き合いが本格化したと言える。週一の集まりのときには、新しい開発の話が出て、それをどうしたらいいか研究員が集まり議論を交わす。町田さんはみんなの話を静かに聞いていて、最後に「こうしたらどうか」と自分の意見を述べる。町田さんの頭の中では、今議論してきたことはすでに自分の中で考え実験し次のステップに移っていたのだと思う。町田さんは「でも」という言葉を極力嫌った人で、あることを研究員が提言したとき上司が「でも・・・」というと、町田さんは、すぐにその上司に「でもという言葉は、その人の意見を否定してしまうことなので、議論の場では使わないように。でもという言葉で話が進まなくなるからね」と注意したのが印象的に残っている。

 町田さんは機械設計からレンズ設計、電子回路設計、化学、物性、旋盤加工まで何でもこなすマルチ人間だったで、こちらの話は何でもすぐに了解して、「こんなレンズはどうかと思っているんだが、加藤さん、ちょっとやってくれないか?」と話が飛んでくる。
週一の集まりは、必ず、夜の飲み会まで続いた。その場でさらに突っ込んだ話へと展開していくのだ。その場がいちばん町田さんらしい姿をしていたと思う。焼酎のウーロン割が好きで、一杯また一杯と飲むうちに、おかわりのスピードも上がっていく。酒が入るほど頭の回転が速くなり、すごいアイデアがどんどん出てくる。「今度までに頼むよ」この一言で開発にゴーがかかる。
あるとき町田さんと飲んでいたとき、僕が「みんなは、町田さんのことを町田先生と呼んでいますが、ぼくは町田さんと呼びますよ。先生というと上下の関係で、素直に突っ込んだ話ができないので」と偉そうなことを言ったことがあった。それに対して町田さんは「加藤さん、こちらこそ長く付き合って下さいよ。実はぼくもそうなんだよ」と言ってくださったのが心に残っている。実はそのとき町田さんは早稲田大学理工学部大学院で研究生にいろいろ教えていたのだった。

僕がが開発したレンズシミュレーションソフト「OPT98」は、そんな中で生まれる。町田さんは、以前からレンズ設計をされていたが、新しいレンズを考えるたびにBASICでプログラムを組んで設計されていたので、効率が悪いことは本人も分かっていたし、私もそれを痛感していた。そこで誰にでも使えるようなソフトを作ろうと決心して、3ヶ月くらいかけてプログラムを作り上げた。それを町田さんは、本当に良く使ってくれて、「ここはこうした方が使いやすいけど、やってくれないか?」といろいろアドバイスを与えてくれた。僕のソフトをフル活動して、多くのレンズを設計してくれたのは、町田さん以上にはいないと思っている。
町田さんは、日本で初めてファイバースコープを作った人だったから、医療器具などの細かな設計が得意だった。当時、町田さんが相談役をしていた会社はバーコードリーダーを開発して販売している会社だったが、いかにして小さなハウジングの中に、レンズと回路を組み入れるかのアイデア競争だった。僕の担当はレンズ設計。それまで、僕が設計してきたレンズは、望遠鏡のレンズで、いかに良い像を結ばせるかということに神経を使ってきたのだが、バーコードの世界はまったく違っていた。紙面に印刷された間隔や太さが違う縦じま模様をいかに正確に読み取るかということで、いいレンズ過ぎると良くなかったのだ。それは、紙面ノイズと言って、バーの情報と一緒に紙面のノイズも拾ってしまって信号の質を落としてしまう。そこで、ちょっと曖昧さを持ったレンズが要求されるのだ。今までそんな経験がないので、どんなレンズがいいのか分からないところに町田さんのアイデアが光る。ルビー球を使ったり、プラスチックの非球面レンズを使ったり、それは楽しいアイデアだった。
町田さんは、ファイバースコープを作るに当たって、ガラスファイバーの製造法から自分で考え出していった。ファイバー製法の実験にはガラスではなくて水飴を使ったとか、おもしろい話がポンポン出てくる。いろいろな発明をして特許もたくさん持っていたが、それらのことがすべて頭に入っていた。あのときは、こうして作ったとか、こんなことを考えていたとか、還暦を過ぎた方にはぜんぜん見えなかった。あるときは、魚の骨を柔らかくすることに熱中して実験を繰り返していたり、植物の葉の水分計を考えていたり、いろいろな光センサーなど凡人には思いもつかないことに挑戦していた。開発を依頼されたとき、どんなテーマに対しても決してノーとは言わなかったのが印象的だった。ファイバースコープ開発の話は柳田邦男さんの「ガン回廊の朝」(講談社、文庫、上下2冊)下巻にも紹介されている。
町田さんの格言でひとつ印象に残っていることがある。

物を開発するときは、常に3つの仕事を同時にしなさい。1日中同じことを考えていても新しいことは考えつかない。10分ごとに3つの仕事を切り替えて考えていると不思議に関係ないと思われる3つの仕事から思わぬヒントが浮かんでくるものだよ

町田さんは、とことん実験する人で、その過程で新しい発見をしたら以前の考えをスパッと切り捨てて頭の切り替えをしていた。自分では耳学問と言ってたが、学校で教わったのではなくて人との対話の中から知識を得てそれを物にしてきた方だった。それだけ人の話をよく聞いていたのだと思う。僕が宇宙の話をすると、興味深く聞いてくれたし、町田さんも結構、星のことを知っていて、「あれは何座だとか、女の子に話すと、とても もててね」と、うれしそうに話していたのが印象的だった。
すでに亡くなられて久しい町田さんの姿は、僕の中で今でも鮮明に残っている。町田さんには面と向って先生と呼んだことはなかったが、師と仰ぐことのできるただ一人の方だったと思っている。
記:2006/9/30