中村 要と反射望遠鏡
●僕が生まれる遥か前に一人の天文家がいた。中村要(なかむら かなめ)は1904年(明治37年)に滋賀県の旧家中村家の次男として生まれた。少年の頃、京都大学の山本一清博士の天文講演に感銘を受けた。そして旧制中学卒業後(1921年、18歳)に山本(以下敬称略)のいる京都大学宇宙物理学教室に無給の志願助手として勤めることになった。 中村の著書のひとつである『反射・屈折天体望遠鏡ー作り方・観測手引』(1929年)の中で、その当時の様子を書いている(大学時代に国立国会図書館でこの本を見つけ、一部をコピーしておいたもの)。 「中学の三年生の時に天体に趣味を持つようになり、その時、星を覗きたさに、原理も充分分からないで、二枚の単レンズを組合せて望遠鏡らしいものを作ったのが始りで、段々深く進んで行った。それから中学を卒業し、天文台に入る様になってからも自分の一つの研究題目に天体望遠鏡を選び、当時稀であった反射望遠鏡に興味を持ち、更に進んで自ら凹面鏡や平面鏡、或は、近頃には対物レンズにまで手をつけた。」(注:新かな使いに訂正) 中村が自作した口径1インチ屈折望遠鏡(下記本@より) 上の光学系は山本が自分で考え作った口径たった1インチ(約2.5cm)の屈折望遠鏡だ。材料は眼鏡レンズと虫眼鏡レンズだけである。ここで興味を引くのはBレンズだ。Bレンズは対物レンズの一部として機能していて、接眼レンズはCの単レンズであるということ。A、B合わせて単レンズの色収差等を緩和する役目と焦点距離を短くし、視界を広く取るための工夫がある。後に、口径の大きな屈折の対物レンズを作るようになる。普通凸凹レンズ合計4面を適正な曲率半径の球面で構成するわけであるが、研磨時間に余裕があり精度を要求されるものに対しては一部非球面化の修正をしていたらしい。 山本一清はアマチュアの育成に努められた方で1920年(大正9年)に東亜天文学界(OAA)を設立している。中村は山本の指導の下で火星観測、流星観測、変光星観測(ペルセウス座ZZ発見)、小惑星観測(1928QM発見)、彗星観測(1922e発見)など多方面に成果をあげたが、助手の立場では構内にある望遠鏡の使用も限られていた。そのため、独学で反射鏡研磨技術を学んで反射鏡製作に没頭することになる。当時、山崎正光が彼より早く鏡研磨をしていたようで、京都大学に来たときに指導を受けた可能性が高い。中村は300面近い鏡を製作し、西村製作所や五藤光学研究所の望遠鏡に取り付けて安価で高性能の反射望遠鏡を広くアマチュアに普及させた功績は大きいと言えるだろう。1926年に西村製作所(西村繁次郎)は京都大学へ国産第1号反射望遠鏡を製作納入している。1929年に京都大学付属施設として花山天文台が開設される。中村は助手としてここで観測を続けることになる。しかし1932年(昭和7年)、28歳(数え年で29歳)という若さでこの世を去っている。目を患い将来を悲観しての自殺であったという。彼は多くの業績を残しながらも公の評価が得られているとは言えなかった。 東亜天文学界は、そんな生涯を終えた中村要の業績を称えるために創立80周年を記念して『中村要と反射望遠鏡 宇宙物理学の黎明を支えて』(@)を2000年(平成12年)に出版した。そこに中村要の詳しい資料が掲載されている。この本は通常の本屋では入手不可能ということでネットを探してみると古本屋(それも札幌でした!)にあることが分かり、やっと入手することができた。 彼はハーシェル・ニュートン式という反射望遠鏡の考案者としても知られている。彼は反射鏡研磨で最初の一時期を画した人である。中村の反射鏡研磨にかけた情熱は木辺成麿や苗村敬夫達に受け継がれていった。ちなみに中村が使っていた研磨機械や光学ノート(9冊)などの資料は木辺に引き渡され、1990年に木辺が亡くなった後はダイニック・アストロパーク天究館に保管されている。 ハーシェル・ニュートン式の光路図が本@に掲載されていたが、光路を曲げる斜鏡としては直角プリズムらしきものが描かれているが実際は矩形の鏡であったようだ。整理された鏡リストからそれが判明した。 当時のハーシェル・ニュートンの広告(斉藤氏より) そしてこの形式の望遠鏡は五藤光学で販売されたとある。当時口径5cm・焦点距離700mmの反射鏡を44面磨いたとあり、これをハーシェル・ニュートンに使ったということらしい。 同じ本に掲載されていた中村の火星スケッチをここに掲げるが、細かな模様まで克明にスケッチしているのが分かる。1924年(大正13年)は火星大接近の年であり、最大視直径も25.10″になり2003年の25.11”に匹敵するものだった。このときは16cm反射望遠鏡を主に使っていた。京都のシーイング゙ではこのくらいの口径が良いらしくて25cmクラスになると分解能を生かせる日数が1/3に減ってしまうと言っている。火星の系統的な観測は1920年(大正9年)に京都大学の山本一清の指導によって中村が開始したのが日本では最初であったようだ。その後、約2年2ヶ月ごとの火星接近に合わせて観測を続行している。中村以前に火星を観測して記録に残しているのは幕末の国友一貫斎(1778-1840)と岩崎善兵衛(1756-1811)の二人で大シルチスなどの模様を確認している。国友はグレゴリー式反射望遠鏡で、岩崎は屈折望遠鏡をそれぞれ作り観測している。 1928年(昭和3年)に、中村は「科学画報」という雑誌に『反射望遠鏡の作り方』の記事を連載した。その連載に合わせて鏡材と研磨剤の販売も行なわれたために反射鏡自作ブームが起こったと言われている。その他「趣味の天体観測」、「反射望遠鏡の知識」などの出版を通して山本一清と共に天文普及に大いに貢献したと言えるだろう。また天体写真分野での活躍もめざましく、遺著となった『天体写真術』はその後の天体写真の道を切り開いていくことになる。 1929年(昭和4年)頃の鏡材・研磨剤の販売価格(反射・屈折天体望遠鏡ー作り方・観測手引) 「完全な売品を購入する時の価格にしても一ヶ月の俸給、即ち百円以下である、反射望遠鏡なれば十センチ、屈折望遠鏡なれば五センチのものを標準にする事とし、・・・」(注:新かな使いに訂正)とあり、望遠鏡の大きさや価格設定がぼくの高校生時代(1965年頃)とあまり変わっていなかったという印象を持った。もちろん、給料や商品価格の絶対値は変動しているが。 |
1924年(大接近)の
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●中村要が亡くなった後、東亜天文学会誌「天界」に中村要氏追悼号が組まれた。目次しか入手できなかったが、寄稿した方々の顔ぶれを見るとすごい。山本一清、木辺成麿、古畑正秋、小槙孝二郎、下保 茂、五藤齊三など。北村庸夫は要の従兄にあたる。当時注目されていた人だっただけに早過ぎた死は惜しまれたに違いない。
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記:2006/9/16 |