日本ということば



日本という国号がいつごろから使われだしたのか、また「君が代」や「日の丸」はどのようにして生まれてきたのかはいまだに謎のところが多い。網野善彦氏は日本というひとつの作り上げられた偶像の中にすべてのものを押し込めようとする今までの歴史学への警鐘を鳴らしてきた。ひとつには到底収まりきれないものを、無理やり連続した物語の中に収めてしまおうとする今までの歴史学。天皇制との関わりやこういった歴史誤認が「国民の歴史」(西尾幹二/著 新しい歴史教科書をつくる会/編)のような本を生んでいると網野氏は言う。今年は戦後60年に当たるが、こんな機会に日本のこと、歴史のことを考えてみるのもいいだろう。

日本を再考するのに網野善彦氏の本をお勧めする

広辞苑(第三版)によると、日本は『わが国の国号。神武天皇建国の地とする大和(やまと)を国号とし、「やまと」「おほやまと」といい、古く中国では倭と呼んだ。中国と修交した大化改新(645年)の頃も、「日本」と書いて「やまと」とよみ、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった。現在もよみ方については法的な根拠はない
『古来ニッポン・ニホンと両用によまれる。ニッポンの方が古い』とある。

事の起こり
『日本書紀』によると、607年(推古15)に小野妹子が国書を持って遣隋使として派遣されたとある。
その隋皇帝煬帝に宛てた国書には、「日出処天子到書日没処天子」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。)と書かれている。 ちなみに中国の事を「日没する処」としているが当時の中国ではこの表現を見て腹を立てている。というのも日本の方が感覚的にも上を意味していて、中国は今にも没する国という印象を持たせたに違いないからだ。当時は中国が中心で、日本は中国より東にあり、日の出が早いことからこの言葉が出ている。
網野善彦氏によれば、日本という国号は7世紀後半、689年に施行された「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が始まりとしている。それ以前には日本という国は存在せず、倭国などの別の名称になる。ということは上の説明においては日本という国名を使ってはいけないことになる。
2月11日という日を日本の「建国記念の日」と国が定めたが、この根拠は曖昧模糊としている。というのは日本という国名がいつ歴史に現れたかをほとんどの人が認識していない状況であり、国会議員ですらたぶんそんなことにはお構いなしに法案を通したとしか思えない。建国の日を架空の「神武天皇の即位の日」などという設定事態、国がなすべきことではないと思える。まだ日本という名称の国が存在しておらず、さらに歴史的に実証されていない「神武天皇の即位の日」を「日本の建国記念日」としているからだ。
「日出処」から「日本」に変化したという説が有力だ。日本と言う国号は「日(太陽 )の本」と言う意味を表わすために作られた言葉であるという。
「日本」を中国では「ジポン」「シッポン」と読んだというが、 マルコ・ポーロはこれを東方見聞録(1271-95年)で「ジパング」と紹介する。 これから英語の「ジャパン」へと変化していく。
話は変わるが、「日本海」と読んでいる海のことをアジアという視点で眺め直したとき、おかしいなと思ったことはないだろうか。日本海は中国にも韓国にも接しているのに。今、靖国問題や教科書問題でアジアとの関係が微妙になっている。こんな些細なと思われる言葉でも改めて考え直す必要がありそうな気がする。

日の丸はいつから
日本の国旗としての「日の丸」(日章旗)は明治3年(1870年)に制定された。
日の丸の旗印は、薩摩藩が1863年にイギリスと薩英戦争を起こした時に新たに考案したものだという。この時の日の丸は、天皇が即位するときに使われていたという日章幡旗を簡略化したもの。 日章幡旗は文武天皇の701年の元旦、朝賀の儀式にこれを立てたのが始まりという。
このあたりに、日の丸と天皇との結びつきが出てくるのがわかる。

「日本」の読み方
 「ニホン」と読む日本書紀、日本そば、日本画、日本海、日本髪、日本橋(東京)、日本坂トンネル、
            日本酒(略して言うときはポンシュと言うが)
 「ニッポン」と読む日本(国号)、日本国民、日本橋(大阪)
 どちらの読み方もできる日本一、日本語、日本人  
 「ヤマト」と読む日本武尊(ヤマトタケルノミコト、倭建命)

国歌の制定は
平安時代中期の「古今和歌集」の中に、奈良時代の古歌として次のものが掲載されている。

「我が君は千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

そして、平安時代末の「和漢朗詠集」で「我が君は……」が「君が代は」に改められる。
明治2年(1869年)にイギリスの軍楽隊長であったフェリスが日本の国歌の必要性を説いた。それを受けて大山巌(西郷隆盛のいとこ)が「君が代」を歌詞に選び、フェリスが作曲した。 しかし、メロディがあまりにもヨーロッパ的であったために採用を却下される。そして宮内省の雅楽の楽士であった林広守にあらためて作曲を依頼。明治13年(1880年)11月3日(明治天皇の誕生日だったので、昭和23年までは天長節と呼ばれていた)に宮中の宴会で演奏されたのが始まりとされている。 その後、「君が代」は天皇礼式曲として主に軍隊で演奏され、明治26年(1893年)に小学校の祝祭日の祝祭用唱歌として公布される。以後事実上の国歌として歌われた。そして 1999年8月13日に日本の国歌を「君が代」とする「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法と略される)が本当に議論されたのか疑わしい状況の下で、すんなりと国会を通り公布、施行されたのだ。これらの経過を見ていると、国歌の起こりも天皇との関わりが強いのがわかると思う。
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(追記)
この文章を書いている最中(PM4:35過ぎ)に強い地震があった。東京方面では震度5と言っていたがこちら埼玉では4の強といった感じのものだった。かなり長い揺れで、一度済んだと思った後も2回くらい微震を続けて感じた。
2005/7/23 記