日本語の豊かさ


四季のある日本には独特のニュアンスを持った言葉がある。1年中暑い熱帯地方の人たち、常に乾燥している砂漠地帯に暮らす人たち、台風の脅威を知らない人たちは恐らく日本の四季に根ざした微妙な表現は理解できないのではないだろうか。雨ひとつとっても、「rain」だけでは表現しきれない語彙を日本人は持っていると思う。試しに雨に関することばを少し拾い出してみることにしよう。

あきさめ【秋雨】
あきしぐれ【秋時雨】
あまあし【雨脚・雨足】
あまおと【雨音】
かんう【甘雨】
かんう【寒雨】
きう【祈雨】
きりさめ【霧雨】
さみだれ【五月雨】
さよしぐれ【小夜時雨】
さいう【細雨】
しぐれ【時雨】
しゅうちゅうごうう【集中豪雨】
しゅうう【驟雨】
つゆ【梅雨・黴雨】
てっぽうあめ【鉄砲雨】
てんきあめ【天気雨】
とうう【凍雨】
とおりあめ【通り雨】
ながあめ【長雨・霖】
なたねづゆ【菜種梅雨】
にわかあめ【俄雨】
ぬかあめ【糠雨】
はるさめ【春雨】
ぼうふうう【暴風雨】
むらさめ【群雨・叢雨・村雨】
らいう【雷雨】

これらのことばは、その季節に応じた雨とそれに伴う人の心の感じ方を表現している。微妙な季節感をことばで言い換えている日本は、別の見方をすれば科学的言葉だけでは表現しきれない何かを内包しているとも思う。日本語は感覚に根ざした表現が多い。人と自然が分離されていない表現とも言える。科学は自然を人と対峙させ突き放してはじめて成り立つ世界だ。西洋の人々はそれができたから科学という領域が発展してきた。科学的表現としては雨は水滴の一種であって同じ種類のものに違いない。強さの違いがあっても雨は雨なのだ。しかし日本人はそれを自分と自然とが一体のものと昔から認識してきたのだ。常に人も自然の一員として含まれていることを否定することができなかった。
一見あいまいと思える表現を止めて科学的なことばだけで物事を表現することはもちろんできる。感覚的ではあるこれらのことばを止めたとき、日本人は西洋人と同じ考え方ができる科学的人種(?)になれるかもしれない。しかしこれが最善とも思えない。科学的表現もしつつ、感覚も大事にする、これが日本人独特のあり方と思うだが如何だろうか?
2005/10/10 記