詩が持つ力


好きな詩人はいっぱいいるが、心の片隅に居続ける詩人は数えるほどだ。
谷川俊太郎、茨木のり子、石垣りん、宮沢賢治、金子みすず、山之口獏は、常に居座っている。
谷川俊太郎の「二十億年の孤独」は今でもその威力があり、はじめて読んだときの感動は続いている。宇宙と人間の関係をさらっと見とおしているすごさがあるからだ。
茨木のり子は「もはや できあいの思想には倚りかかりたくない 」で始まる「りかからず」の中で、言ってもらいたいことをずばっといいあててくれている。他の詩でも明快に物事を切り取っていて気持ちがすっきりとしてくるのだ。
石垣りんは、日常生活のうらみつらみをこれでもかこれでもかと詩にぶつけている。苦しいときでも詩を書くことによって生きているといった強さを持っている。
宮沢賢治はあまりにも範囲が広いためにこれがそうだよと言い切ることができない深さを持っていて、永遠に付合わなければならない詩人だと思う。
金子みすずは、見えないところに注意を向け、そこに本質があるんだよと訴えかけてくる。物事へのやさしい眼が感じられるのだ。
山之口獏は、どんな貧乏でも自分から受け入れて楽しんでいるすごさがある。
それぞれの詩人の目指すところは違っても、根のところで繋がっている感じがするのだ。
詩は、落ち込んだときに慰めてくれたり、怠けているときにはしかってくれたり、またあるときは夢を見させてくれたり、泣かせてくれたりする。だからいろんな詩を知っているということは、自分の生き方に変化を与えてくれるものだと思う。声に出して読むことで耳から入る心地よい響きに酔うこともできる。詩にはそんな魅力がある。
最近出版された「言葉の力を贈りたい」(ねじめ正一著)を読みながら、詩が持つ言葉の力を感じている。
テロによるニューヨーク貿易センタービルの倒壊から1年目の今日、亡くなった方々の冥福を祈りつつ、人の心の有り様をもう一度考えてみたいと思う。
最後にノヴァーリスの箴言集「断章」(断片)の1節から

 すべてのみえるものは、みえないものにさわっている
 きこえるものは、きこえないものにさわっている
 感じられるものは、感じられないものにさわっている
 おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているのだろう。

2002/9/11 NYテロから1年を迎えて