天体望遠鏡の発達

 ガリレオの時代に始まった望遠鏡の歴史を現代までたどりながら、その時代の宇宙観を見ていきたいと思う。

ガリレオが見た宇宙
 ガリレオ・ガリレイは、16世紀の中ごろ(1564年)に、イタリアのピサに生まれる。
ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)

 19歳の時、すでに「振り子の等時性」を発見したり、ピサの斜塔での「落体の実験」など、自然科学での実験の必要性に早くから気がついていた。24歳にして、ピサ大学の講師となっている。27歳からはパドバ大学の教授となり、ここで18年間を過ごすことになる。1609年、ガリレオが45歳の時、オランダで作られた筒眼鏡のうわさを聞きつけて、凸レンズに凹レンズを組み合わせて望遠鏡を作ることを独自に思いつく。
ガリレオは
 「凸レンズは物を大きくするが、それだけで景色を見るとぼやけて見えるし、眼はくらくらするだけだ。だから、オランダで作られた筒眼鏡は、きっと凸レンズと凹レンズとを組み合わせているはずである」と推測したのだ。はじめて作ったのは、3倍の望遠鏡。そして、ヴェネチアで政府高官に見せた望遠鏡は9倍の倍率を持っていた。これらのレンズは、眼鏡用のレンズを組み合わせて作ったらしい。そして年末には、自ら研磨したレンズで、口径26mm、倍率14倍と、口径16mm、20倍の望遠鏡を作り上げた。
望遠鏡の発明者はオランダの眼鏡屋リッペルスハイとか、ヤンセン、あるいはメティウスという名前が上がっているが、いまだに決着はついていないようだ。
 ガリレオの名を後世に残したのは、力学研究の外に、望遠鏡を通しての新しい宇宙像を提示したことによるところが大きい。ガリレオが天体観測で初めて見つけた事実を列記してみることにしよう。


 (1)金星が形を変えることから、金星は太陽の反射光で光っている。
 (2)月の表面は平らではなくて、凹凸になっている。
 (3)木星の周りを4個の衛星が一定の周期で回っている。
 (4)土星に2つの耳状のものが付いている。
 (5)天の川を見ると、多くの星からできている。
 (6)太陽に黒い斑点(黒点)があり、これが太陽の周りを回っている。

これらの発見の中で(3)の木星の4衛星は後にガリレオの4大衛星と呼ばれることになるが、地球が太陽の周りを公転しているという「地動説」をガリレオに確信させることになる。
(4)の土星の観測では、2つの耳を環だとは認識していない。環であることを認めたのは、1655年のオランダの科学者ホイヘンスが最初である。(5)の天の川の発見は後の銀河系の構造への足がかりを作ったといえる。(6)の太陽黒点によって、太陽が自転していることを知る。太陽の自転に初めて気がついたのは、ガリレオではなくて、同じ時期、ドイツで天体観測をしていたファブリチウスである。
 1616年、キリスト教会の教義に反するとして地動説禁止令が出されたが、ガリレオは、その弾圧下で、地動説を力説する「二つの世界体系に関する対話(新天文対話)」(1632年)を出版する。その結果、晩年はフローレンス郊外に隠棲を強いられて、力学研究の方に没頭するようになる。1638年には、失明し、1642年のクリスマスにその生涯を閉じた。
奇しくも1642年は、イギリスでニュートンが誕生した年でもあった。ガリレオが天体観測に用いた凸と凹レンズの組み合わせは、彼の業績をたたえて今でもガリレオ式望遠鏡と呼び習わされている。この形式の欠点は、高倍率にすると極端に視野が狭くなるので、現在では、観劇用のオペラグラスくらいにしか使われていない。当時、ガリレオが使っていた径37.5mmの望遠鏡の倍率は15倍。この時の視野は約6分くらいと思われる。月の約1/5しか、視野の中に入らないことになる。現在の望遠鏡では、3〜5度くらいあるから、30〜50倍も見えている広さが狭いことが分かる。これでは、さすがのガリレオも星を導入するのに苦労したことだろう。
ひとつ、ガリレオ式のいい点は、像が逆さまにならないことだ。そのため、低倍率のオペラグラスには、ガリレオ式が今でも用いられている。

ガリレオの描いた惑星スケッチ