●現代はよく無信仰の時代と言われる。それでいて古寺を訪ねる人々の数が逆に増大している。これはどういうことか?古いものへの憧れ・・・ただそれだけではないだろう。古いものがすべて良いとも悪いとも言い切れない。それとも現代社会からの逃避でしかないのか。そういう人間もいるかも知れない。しかしそれと同時にもっと積極的な意味を古寺あるいは石仏に求める人間もいる。 今まで日本は西洋思想をもって、自然を征服しようとしてきた。しかし、その結果は公害国日本という汚名を着せられることになってしまった。目を古寺あるいは石仏に向けた時、人々はそこに活き活きとした自然と共存している姿を見出すことができる。苔むした石仏に注目すると、時間を置いて写した同じ石仏の写真上の苔の状態が変化しているのがわかる。空気の汚れた都会では苔生すこともない。これは苔が環境指標の役目を果たしていると言えるからだ。石仏は決して過去のある時間で止まってしまった遺物ではない。過去の創造物であった石仏は今も生き続け、われわれにひとつの思想ー自然との共存思想ーを提供してくれるのである。 ■村と村の境や辻にはよくお地蔵さんが立っていました。災厄が村に入ってくるのをお地蔵さんが防いでくれると考えていたんでしょう。そんなお地蔵さんだから、毎日お供えものをしたり、毎年赤い前垂れを着せかえたりしてお返しをしてきたんだと思います。傘地蔵という昔話をふと思い出しました。今でも辻に立つお地蔵さんに供え物をしたりする習慣を受け継いでいる人たちはいますが、そのやさしい心を若い人たちが受け継いでいってくれたらうれしいですね。石仏はきれいにしてもらえることもうれしいでしょうが、苔むした姿もうれしそうに見えます。自然の一部なんだよと、身をもって訴えているように見えます。それを感じることができるから、ぼくは石仏に惹かれてしまうのかもしれません。石仏散歩に何年費やしたかを考えてみますと、天文よりも長いんですね。40年以上ということになります。星をやりながら、背後に常に石仏があったように思います。天体という普段とはかけ離れた世界から、現実の世界に引き戻してくれる懸け橋に石仏があったように思うのです。光と影のありように殊更魅かれていることが、石仏に興味を持たせるひとつの誘因になっているとも思います。石仏写真で一時モノクロ写真にのめりこんだ時期がありました。石仏はモノクロに限ると思ったりしていました。モノトーンの世界が石仏には似つかわしいと思ってもいました。しかし、このごろはモノクロでは表現しきれない場合もあることが分かり、このこだわりは捨てています。
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【 Photo : 加藤 保美 】 | |||||||
堂をめぐる道に居並ぶ石仏の 風貌も枯れ果てて無音に (父: 利博) |