勤め始めたころ



昭和48年(1973年)に大学を卒業し、望遠鏡メーカーに就職が決まる。1973年といえば第一次オイルショックで、トイレットペーパーの買占め騒動などが起こった年でもある。江崎玲於奈さんがノーベル物理学賞を受賞したのも確かこの年だったと思う。僕の方はといえば、いよいよ一人前の社会人になるという高揚感があった年ということになる。それも研究開発という部署に配属されたからなおさらである。本社は新宿区にあったが、新入社員ということで研修の意味も兼ねて3ヶ月間、板橋の方にある望遠鏡工場に派遣された。ドリルの穴あけ、タップ通し、鋳物のバリ取り、望遠鏡架台の組み立てと何もかも初めての経験だった。毎日油まみれになって働いた。望遠鏡工場といっても普通の町工場とまったく変わらない。本社よりも近かったので通勤時間は大幅に短かった。そこで初めて天文が好きな友達に出会ったのだ。彼は主に望遠鏡のレンズの組み立てと調整をしていた。しだいに仲良く話すようになる。八王子に住んでいた彼の家に泊りがけで観測に誘われたこともたびたびあった。彼は天文に詳しく自分でも天体写真を写していた。アルバムを見せてもらいながら、いつかこんな写真を撮りたいと思っていた。
世の中は高度成長期(1955年〜1970年)から安定成長期(1970年〜1990年)に入りまだ金が有り余っていた時代だった。クリスマスや入学祝などでこどもに望遠鏡を買ってやる親たちも大勢いた。親にしてみれば、自分のこども時代に夢にまで見た望遠鏡をこどもに与えることによって自己満足しているという向きもあったと思う。1986年にはハレー彗星が76年ぶりの回帰とあって、空前の天体望遠鏡ブームに突入することになる。そんな市場の情勢の中で望遠鏡は作っても作っても生産が間に合わなかった。


 3ヶ月の研修が終わり本社に戻ることになった。そのころはまだ実家の大泉にいたので、電車ー電車ーバスという乗り継ぎで1時間少しという通勤時間だった。ラッシュアワーにもまれながらの通勤も疲れは感じなかった。バス亭からすぐのところに会社はあった。本社は3階建ての建物で間口が狭く奥行きのある建物だった。研究室は3階にある。研究室といっても名ばかりで実験器具が並んでいるわけでもなく事務机と製図板があるだけ。仕事は主に新製品の図面書きで、当時はまだCADなどという便利なソフトはなかった。というよりパソコンなどこの世にはまだなかった。1976年にスティーブ・ジョブズがガレージで製造したAppleTを販売、翌年にApplenUが大成功を収めたのがパソコンのはじまりと言えるだろう。しかし実務的に使えるようになるにはまだまだ日数を要した。日本で最初の本格的なパソコンが発売されたのはシャープのMZ-80K(1978年)、日立のMB-6880(1978年)、NEC のPC-8001(1979年)の3機種だった。僕がはじめて購入したのがMZ-80Kだったが、1ヶ月分の給料では足りなかった記憶がある。そんな高価なものでも使える言語はBASICだったのでCADなどはまだまだ手に負えなかった。そのため図面は昔ながらの製図板に向かっての手書き作業だった。製図を習ったこともなかったので一からの勉強である。研究室のある3階へは、足を踏み外しそうな急な階段を登っていかなければならない。入社したのが4月なので季節は良かったが、戻ったときは真夏。ここ3階にはクーラーも無かった。そのため夏はインドのように暑く、仕事中ワイシャツを脱いでの仕事であった。白衣が支給されていたが、上司はワイシャツを脱いで下着の上に白衣を羽織っていた。冷房といえば扇風機だけ。部屋自体がすでに蒸し風呂状態であるから扇風機も温風機と化していた。そんな中での望遠鏡の試作やら図面書きだった。


 望遠鏡を売るためのキャンペーンということで、全国にある取引先の販売店で天体観測会を開くことになった。講師は天文台の先生や天文研究家に依頼することもあったが基本的には社員が行なっていた。天文に詳しく話ができるのは工場の友人、研究室上司、それに僕の3人しかいなかった。そのため、講師が足りないときは大学の天文部から人を集めて観測会のための講習なども行なった。観測会はこども達の夏休み期間中に集中的に行われたので大学生を集めるのは比較的容易だった。それでも沖縄から北海道まで日本全国を飛び回らねばならなかった。この期間、研究開発はストップ状態。ほとんど一ヶ月家には帰れなかった。帰ってきたと思ったら、次の出張が待っていた。それでも楽しい経験でもあった。こども達は目を輝かせて話を聞いてくれる。月を望遠鏡に入れて見せてあげると、写真みたいとはしゃいでいた。望遠鏡で見る月は大気のゆらぎで小刻みに揺れている。それが今見ているのだという現実感を与える。親達の興奮はこども達をさらに上回っていた。きっと夢にまでみた望遠鏡をいま見ているという感動があるからだろう。
ハードスケジュールのように見える観測会の連続であったが、実際はそうでもなかった。観測会は夜と決まっていたので昼間は自由時間がたっぷりとあったからだ。次の観測地へ着くと、まずは近辺を散策するのを常としていた。大学時代から石仏にものめりこんでいた僕は近くの石仏がある寺などをよく見て回った。自分の好きなことができるまさに一石二鳥の観測会であったのだ。
観測会を開いてみて感じたことはみんな星にロマンを感じているということだった。そのロマンを壊さないように星の神話から話を始めるようにしていた。その土地独特の「星の連なり」の呼び名を野尻抱影さんの本などで調べておいて、それを披露すると感動する人たちが大勢いた。野尻さんは大佛次郎さんのお兄さんにあたる方だ。神話と望遠鏡で見る現実の融合が不思議な夢の世界へと誘っていったのだろう。観測会は毎回盛況であった。4,50名から多い時には100名を超える参加者があった。観測場所はあまり条件がいいとは言えない。デパートの屋上とか販売店の駐車場とか街中が多かったため、見せる天体は明るい月や惑星、二重星などに限られていた。それでもみんな喜んでくれたのがうれしかった。趣味と実益を兼ねたお仕事ですねと人によく言われるが、その通りであったと思う。

後日談であるが、星好きの友人は今は妹の連れ合いになっている。これも不思議な縁ではないだろうか。
記:2006/6/29