父より受継いだもの


最近、中島敦の著作を読み進めるうちに、父のことを思い出していました。平成3年に亡くなってから早10年以上も経っている。父は短歌に一生を投じた世間では無名の人でしたが、その生き様は今自分の中に生きているように思うのです。父が亡くなった直後に、短歌の会の方が特集を組んで下さり、その中にぼくの追悼文も収められました。いま読み返してみて守れなかったこともありましたが、底を流れるものは変わっていないと思っています。ここにその一文を掲載することにします。
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【 父より受継いだもの 】
 自然とのふれあいが何よりも好きな父でした。奥武蔵の山歩きや京都、奈良の神社仏閣を家族揃って出かけたのが昨日のように思えます。
「こんなに大きくなったのに良く一緒についてくるわね!」と知人が父母に話しているのを脇で聞きながら、中学、高校生になってもよく一緒に出かけたものでした。
そんな家族揃っての自然とのふれあいは、今になって思えば自分の中に残って、新しい芽を用意していたのだと思います。
父が短歌に興味を持ち始めたのが中学生の頃だという話を、多くを語らない父から聞いたことがあります。そのときから死の旅路につくまで歌に生きたその生きざまは、形を変えてぼくの中に生きていると思っています。
ぼくが星に興味を持ち始めたのは高校1年のときで、そのとき以来早25年近くも経ってしまいました。個人で楽しんでいた星への想いが、二年前に地元(埼玉県比企郡鳩山町)の「星の会」を作ったときから新しい展開を始めました。単に星を科学的にとらえて楽しむ会ではなくて、そこに集まる人たちとの出会いが重要に思えてきたからです。雑草という言葉がきらいですべての生き物と共存して新しい無農薬農業をしようとしている人、人の夢を実現するために会社を起こした人、焼き物が好きな人、鳥が好きな人、植物昆虫が好きな人、数え上げればきりがありません。
人それぞれの個性とふれあうことが、星を一緒に見ること以上に楽しいことに感じています。
父がいろいろな短歌会に出席するのは、人とのふれあいを大切にしたかったからだと、今になって、はじめて理解できました。
父に逝かれて、ひとつ残念なのは今夏に出版する天文の本を見せられなかったことです。本を出すことを喜んでくれた父に、「歌も載せたいのだけど」と話すと自筆で星関係の歌を何首か選んで短冊に書いてくれました。

  東京は今宵あるべき星空を プラネタリウムに入りて見惚るる
  ハレー彗星夢はやさしくかがやきて われの齢に遠ざかりゆく
  三日月にしたたるごとく金星の かがやきいづる食の終わりて


歌の世界に縁遠いぼくでも、一番すきなのが次の歌です。

  火星にも海はなかりき 夜を覚めて生命たしかに潮騒を聴く

この一首を火星関係の一文の中に収めることにしています。星への見方は、ぼくと父とでは違ったとは言え、それぞれ別の側面からとらえていたのではないかと思います。本来ひとつであったものが二元化して二つに道を歩み始めたのです。
父の歌を読んでいると「お前の見方だけでは片手落ちだよ」と言われているように思えてなりません。生前には自分の本を出さなかった(出せなかったのではなくてと、ぼくは思っていますが)父は、頑固に自分の役目をわきまえていたのだと思います。同じ歌の仲間の方々が巣立っていくことに何よりも喜びを感じていたからです。会の方々がご自分の歌を発展させ、後輩を自ら育てていかれることが、何よりも父に対する手向けの花になると思っています。
ぼくは、父より受継いだ自然と人とのふれあいを大切に、星の会を続けていきたいと思います。

  
億光年星の宇宙にいくばくの 病ひかかへて我いのち生く

病床の父の歌を母が口述筆記したもののひとつです。
平成3年8月20日発行「新炎7〜8月号」より
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星の会はすでにありませんが、その精神だけは今も残っています。このホームページもそんな想いの発露だと考えているのです。
2003/10/12