我が国はじめての彗星発見者



古い本を引っ張り出して眺めていて、ひとつの記事が目に止まった。1974年7月発行の天文ガイド別冊「彗星 その天文学と捜索者たち」。1886年に高知県佐川町で生まれた山崎正光さん(1886〜1959)の自伝である。24ページにわたるその自叙伝「私の天文学経路(My path in Astronomy)」はひとりの天文家の軌跡と交わった人たちとの交友を思い出しながら書かれている。
19歳で、単身アメリカのサンフランシスコに渡る。アメリカの日本人の農場などを手伝いとかボーイをしながら、いろいろと経験を積んでいく。内村鑑三の影響を受けて聖書の研究をしているうちにしだいに天文に興味がわいてくる。アメリカにいるときにはリック天文台に勤めたりしている。また苦学してカルフォルニア大学の天文学科を卒業する。そして、反射鏡研磨の技術を習得して、帰国後、京都大学宇宙物理学教室の助手中村要などに影響を与えている。そんな彼が36歳のときに帰国して、水沢緯度観測所に勤めることになった。当時、緯度変化による極軸の変化量の公式で計算すると、水沢の値だけがずれていた。そこで木村栄はこの公式にZ項を付加するとその矛盾が消えることを発見する。当時の所長がこの木村栄だった。

故山崎正光氏 高知県佐川町の自宅にて 1954年(関勉氏撮影)
水沢緯度観測所に勤めていたとき、1928年10月27日午前2時ころ、しし座χ星の西北1度のところに大きさ3′、光度10等の彗星を発見した。彼は詳細な写生図をとり、その後の動きを観測していたが、雲が出てきてしまい運動が明らかでないので次の日に再度観測しようとしたが、曇り空が続いたため、とりあえず東京天文台に連絡だけ入れておいた。再度観測できたときには、彗星の姿はもう見えなくなっていた。しかし11月19日に南アフリカケープタウンのホルベスが6等級の彗星を発見したのを機として、東京天文台は山崎氏が記録したスケッチを送るように言ってきた。そして、このスケッチを元にしてイギリスのクロムメリンが軌道計算をして、二つの彗星が28年周期の同一彗星であることを明らかにした。これによって、彗星発見が確定する。その結果、山崎氏は新彗星などの発見者に送られるドノホー賞を受賞することになる。その後、この彗星は軌道計算をしたクロムメリンの名を付けられてクロムメリン彗星(27P)と改名されたが、これが日本人はじめての彗星発見の物語である。クロムメリン彗星改名のエピソードとして「自分の名前をつけずに、軌道計算をした人の名前を付けることを強く主張して通した」と言われている。山崎氏の人柄が出ているエピソードだと思う。この自伝では、山崎氏から見た外国人と日本人の考え方の差や、木村栄の印象が特に眼を引いた。

山崎氏が出版された書籍&関連記事
1921年8月から1922年3月まで:天文月報に反射凹面鏡の自作記事連載
1926年:天体望遠鏡の作り方(科学画報社)
1937年:観測機械と天文台・反射望遠鏡の自作法(恒星社厚生閣 図説天文講座 )
1950年:彗星・私の天文学経路(誠文堂新光社 月刊天文ガイド編)
1979年:私の新彗星発見記(誠文堂新光社)
関勉氏のホームページから「2002年12月の日記」山崎氏宅訪問記事
Terry's Place 「最後の山崎ミラー」
記:2009/11/22